幸せのバトン

想像してみてください。

もしもあなたの周りにいる人に次のような出来事が起こったらどう思われますか?
・宝くじが当たった
・会社で出世した
・マイホームを手に入れた
・恋人ができた

さて、あなたは知人に訪れた幸せをまるで自分のことのように祝福できるでしょうか?
それとも嫉妬してしまうでしょうか?

周りの人に幸せが訪れるということは、近いうちに同じ幸せが自分にも訪れるというサインです。

ただし、その幸せを受け取れるかどうかは全く別の話です。
受け取る条件は「人の幸せを祝えること」です。

ではなぜ、嫉妬してしまうのでしょう?
冷静に考えると、人が幸せになったからと言って、その分自分から幸せが遠のいて行くわけではない。
「ひともよかれ、われもよかれ」のはずです。

まあ、知人の新しい恋人が、実は自分も想いを寄せていた人というケースもありうるでしょうが、知人ではなく自分と交際して上手く行くとは限らないし、実はもっと自分と相性の良い人と出会う可能性もあります。

しかし、そうしたチャンスを嫉妬心でフイにするなんて大変もったいない!

嫉妬してしまう人は、自分にはそんな幸せは無縁だと勝手に思ってしまうからなのでしょうか?
でもなぜそう思ってしまうのでしょう。
自分が幸せになったら何かしらの不都合が起こってしまうからでしょうか?
幸せを受け取る資格がないと勝手に思い込んでしまっているのでしょうか?

「類は友を呼ぶ」と言いますが、
嫉妬してしまう人は、嫉妬する必要がないように、自分と同じように幸せを受け取れない人たちとつるんでしまいます。

不幸な人の周りには不幸な人たちが集まり、反対に
幸せな人の周りには幸せな人が集まって、常に誰かの幸せを分かちあっています。
いわば「幸せのバトン」を常に回している状態です。

↑の書籍は、将棋のプロを目指していた瀬川晶司さんが、一度は年齢制限の壁に阻まれて挫折したものの、サラリーマンを続けながらアマチュア選手として将棋を続け、そしてプロ編入試験に合格するまでが書かれています。

この話の中で、瀬川さんの小学校5年生の時の担任の先生のエピソードが興味深いです。

 先生は、授業の合間にいろいろな話を僕たちにした。たとえば、こんな話が印象に残っている。
「私はあなたたちに、人が悲しいときに寄り添ってあげる友だちよりも、その人が喜んでいるときに、よかったねと一緒に喜んであげられる友だちになってほしいな」
 悲しんでいる人には誰でも慰めくらいはいえる。だが喜んでいるひとには、人間はやきもちをやくものだ。そのとき心から一緒になってよろこんであげられる友達こそ、本当の友だちだというのだ。

「泣き虫しょったんの奇跡」瀬川晶司著・講談社

人が幸せに生きるためには、友だちの幸せを喜べることが九九や漢字よりもずっと大切なことだと思います。
こういうことをどこの小学校で教えていただければ。

私もかつては「嫉妬組」でしたが。徐々に喜べるようになったように思えます。

つい先日もお友達に幸せな出来事があり、心から喜べました。
そうすると幸せのバトンを受け取ることができました。
次はどなたに手渡そうかな。

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