信教の自由の存在意義
皆さんは学校の社会の時間で日本国憲法について学ばれたかと思います。
ご存じでしょうが憲法では「信教の自由」も保障されています。
日本国憲法第二十条
第1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
(第2項、第3項は省略)
長らく日本では信教の自由が保障されていませんでした。古くは「踏み絵」等に象徴されるように、宗教弾圧が繰り返されました。
また、戦時中は神道が国境として保障され、日本が戦争へ突っ走っていく上での精神的支柱となっていきました。
こうした歴史的な反省を踏まえて、信教の自由が日本国憲法において明文化された。
ではなぜ信教の自由が重要であるのか。
それは信教というのは、人が幸せに生きるために欠かせないものであるからです。
もちろん、無理に信教を持つ必要もございません。
価値観が多様化した現代は、信教に替わるものも沢山ございます。
人によっては哲学だったり、心理学やスピリチュアル的な物の考え方であったり、寝食忘れて没頭できる趣味だったり、最近ではいわゆる「推し」だったり。
言うなれば信教は「目的」ではなく「手段」です。
イワシの頭だろうが、サバの骨だろうが、信じることによって幸せの道が開けます。(ちなみに本日3月8日はサバ(38)の日だそうです)
その「手段」について、各人が各自の価値観で自由に選択できることを保障することに意義があるのです。
だからこそ憲法で保障されるのです。憲法は人が幸せに生きるために作られた、一種の「祈り」と言っても過言ではありません。
ただ、注意すべきは手段を目的そのもののにしてしまってはいけない。
お釈迦様も言いました。
「人に依らず、法に依らざれ」
自分じゃない他の誰かを絶対視したり盲目的に信じるのではけっしてなく、「教え(法)」を自分が日々生きていく上での指針にするのが、正しい信教と言えます。
あくまで、宇宙の中心はあなたです。
言うなればあなたが宇宙の王であり、神です。
あなたが中心で居続けて、幸せに向かうための羅針盤として、ご自身に合った(広い意味での)信教をご自由に選択しご活用ください。